本多知恵子情報リスト TOPへ戻る


【プロフィール】

※ここに掲載されている内容は、全てが本多知恵子さんご本人がインタビューや手記などで自主的に公開された内容の情報です。

・芸名 ………………………… 本多知恵子(ほんだ ちえこ)

本名を使用しています。誤植の多さはファンには語り草、お馴染みの「本田」「千恵子」「智恵子」から始まり、「和恵子」なんてケースも。さらに、ファンレターや声優の小杉十郎太さんなど、姓を本多知、名を恵子と間違える人もいたとか!? 「恵子さん、こんにちは」と書かれた「本多知」宛ファンレターは俳協時代に届いたもので、事務所でも評判になり、事務所のスタッフから「おい、本多知」と呼ばれたそうです。
なお、テレビアニメ『江戸っ子ボーイ がってん太助』でのクレジットは1話から最終話までずっと「本多智恵子」だったため、「改名したのか!?」と一部で話題に。確かにこの時期、「本多智恵子」と表示されることが多かったのですが。一説によれば、養成所を卒業して俳協本部所属になるときに「知恵子」では字画数が悪いので、高村光太郎の「智恵子抄」から芸名を「智恵子」にしたけれど、いつの間にか本名に戻したとの話もあります。いちおう「プラレス3四郎」でデビューした頃から「本多知恵子」となってます。
「VOICE ARTIST BOXコレクション」の作詞時にはChiekoのペンネームを使用していました。2005年から出ていた月刊レンタルDVD『よしもと本物流』では「ほんだちえこ」と2005年9月号から平仮名でクレジットされるようになりました。
誤植や別名義について、詳しくは
こちらのページへ。

・本名 ………………………… 本多知恵子(ほんだ ちえこ)

ご結婚されていれば、本多姓は旧姓となるはずですが、伴侶がいたのか独身だったのかは、公表されておらず、不明です。1993年6月のラジオ『幕末ナイト』では「結婚していません」と発言し、1995年発売お声優ROMのインタビュームービーで左手薬指に指輪をされていましたが、1996年2月のラジオ『アニキンフリーダム』で「あたしも1人」と独身という意味合いのことを述べられていました。
ご結婚のことはともかく、それ以前に本多姓は母方の姓のはずで、両親の離婚前の旧姓もあったかと思います。
命名は祖父。当初は知恵の予定だったが、名に子をつけるのが当時流行していたため、知恵子に。

・所属プロダクション ……… 青二プロダクション

デビューは俳協です。29年の活動のうちほとんどがフリーでの活動でした。デビューした1983年から、おそらく1988年から1989年の間にかけてが俳協所属でした。(追記:X6800さんの情報によると独立は1989年とのこと)。フリーの頃は、本人は冗談混じりにプー太郎などと言うことも。
フリー時代は、スケジュール管理からギャラ交渉などマネージメントから経理までご自分で行っていたと言います。フリーになった理由は、「身上の都合」「自分をもうちょっと成長させたかった」とのこと。
1989年から20年近くフリーで活動していましたが、2008年2月から非日俳連系声優が多く所属するマックミックに2010年5月まで在籍し、再びフリーでの活動に戻りました。2012年11月に青二プロに入り、青二で活動を終えることになります。
フリーでの活動中は、他のメンバーが全て大沢事務所所属のTECH WIN 1997年10月号のVOICE FAN に1人フリーの本多さんが登場したり、バオバブとつながりの強いディーオーのパソコン用ゲームに出演したり、これまたほとんどの出演メンバーがバオバブというPC-FX用のゲーム「チップちゃんキィーック!」への出演など興味深い事実があります。なお、大沢事務所はかつて組んでいたグループCHOKI! 4人のうち他の3人は所属だった事務所。ぷろだくしょんバオバブは「ミスター味っ子」のキャスティング担当。「マリーベル」や「えり子」などの葦プロ作品もバオバブ色が強いように感じるのですが…。

・生年月日 …………………… 1963年 3月28日(木) 17時40分

デビュー時から1988年あたりまでは生年を公表していましたが、1980年代末あたりからは1990年代以降は生年をプロフィールから削除して非公表としていました。これは本多さん個人に限ったことでなく、声優業界全般の流れだったはずです。古くからのファンならば本多さんの生年は周知の事実とはいえ、ファンでありながらこのページで非公表の生年を公開していたことは、生前の本多さんにとってご迷惑だったこともあったと思うと、申し訳なかったと思います。
アニメ誌などのプロフィールで生年は公開されていた時期にも1987年に始まったラジオ「気分はハートビート」の番組中では年齢は明かしていませんでした。1997年頃のデビュー15周年ライブの告知で、デビュー15周年ということで年齢に突っ込みが入ると、「子役からやっていました」と半ばジョークで開き直るのを持ちネタにし、それを川村万梨阿さんが突っ込んでいたのは今となっては楽しい思い出です。

・出生地 ……………………… 東京都

東京都板橋区の産婦人科で。2200gの未熟児。

・出身地 ……………………… 長野県

東京都になっている資料もあります。東京にいたのは幼稚園まで。幼稚園からは埼玉県川越市。小学校入学後は家庭の事情で転校を繰り返した後、両親の離婚により母の実家のある長野へ転居し、小学5年の秋に長野市立若槻小学校へ。長野市立皐月高校を卒業後に上京するまでは長野市で過ごされました。
出身地については、
こちらでも説明しています。

・命日 ………………………… 2013年 2月18日(月)

多発性ガンにより49歳で逝去。2013年1月末のテレビ番組のナレーションが最後の仕事となり、声優としての活動は29年で終わりました。
病が発覚した時点で既に手遅れ状態で、余命宣告も受けておられたそうです。それでも希望を失わず、最後まで仕事を全うしたいという本人の意思で、病のことはごく限られた人のみに明かし、2013年年明けに体調を崩されるまでは普段通りに仕事を続けられたとのことです。仕事の打ち上げや2012年11月に加入した青二プロの新年会にも、普段と変わらぬ様子での参加だったといいます。
葬儀は、ご本人の意向で身内のみで21日に終え、22日夜にプロダクションの公式サイトで報告という形で訃報が発表。49歳という若さと病について伏せていての突然の訃報は多くの友人や仕事仲間を驚かせ、悲しませました。ご本人の意向によるものかは不明ですが、葬儀とは別の後日のお別れ会などが開かれることはありませんでした。
親しかったご友人や仕事仲間、関係者の方による本多さんへの追悼は
こちらにあります。

・血液型 ……………………… RH+A型

「声優ROM」でのインタビューによると、よくO型に間違われるとのこと。
・星座 ………………………… おひつじ座

公式ブログ開設後のファンレターの宛先は「アリエス・ワン」となっていました。

・身長 ………………………… 144cm
・体重 ………………………… 39kg
・スリーサイズ ……………… B78cm/W58cm/H83cm

出典は朝日ソノラマ『獅子王』誌1989年2月号。スリーサイズが公開されたのはこの小説誌が唯一ではないでしょうか。なお、『ジ・アニメ』誌1983年10月号では体重は38kgとあります。身長はともかく、体重やスリーサイズは変化する上に古い情報ということもあり、参考程度にとどめておいて下さい。
本多さんといえば身長というくらい、身長についてはいろいろとジョークのネタにされていますね。ナイトライダーとか手乗り声優とか一寸法師とか、近年は本人もトレードマークとして開き直っているような感があります。声優専門学校出の新人声優ラッシュの最近はどうか知りませんが、144cmというのは吉田古奈美と並んで声優業界では一番の背の低さ。もちろん子役を除いての話ですが、なんにしても一番というのはいいことです。
「出生時、未熟児で産声をあげず死産かと心配した母親。医師が思い切り背中を叩き、産声をあげて母親を安心させた。が、そのことが原因で背骨が少し曲がり、成長が止まった」とは本人の弁。ちなみに冨永みーなさんによれば、本多さんの母親も同じくらい小柄な方とのこと。

・視力 ………………………… 「めちゃめちゃ悪い」

……とは本人の弁。昔は眼鏡を使用。いわゆるアラレちゃん眼鏡でした。その後はコンタクトレンズです。

・家族 ………………………… 母親

一人っ子。小学校のときの長野への引越しは両親の離婚のため。長野県は母親の故郷とか。上京後、しばらくして(食べられるようになって?)母親を東京へ呼び寄せたようです。すごく母親思いでとても大切にされています。現在の配偶者の有無などは不明(^^;

・出身校 ……………………… 長野市立皐月高校

長野市徳間に所在の女子高校。全日制。普通科と家政科を併設。1992年度の生徒数は916人。コーラス部(合唱部)に所属。3年生のときの文化祭で演じたミュージカル「11匹の猫」ニャンゾウ役を演じたことがこの世界を目指すきっかけになりました。
2008年に男女共学の長野市立長野高等学校となり、現在この校名の高校は存在しません。

・出身養成所 ………………… 俳協付属養成所

1981年春、芝居とDJをやりたくて、単身上京後、テアトル・エコー付属養成所とともに受験手続をし、先に入試のあった俳協に合格。この年の俳協付属養成所の第1次募集試験は2月22日に実施。ちなみに「11匹の猫」をもともと上演していたのはテアトル・エコー。当時の俳協養成所は声優専門コースはありませんでした。1年間の声優専門コースが用意されたのは1985年から。この頃にはアナウンス学院の類はありましたが、声優になるための専門学校などありません。声優プロダクションの養成所も、青二プロが青二塾を開校したのが1982年でした。授業内容は、声優養成のためのものでなく、ダンスや日舞などの肉体訓練や舞台演技の時間の方が多く、俳優を養成するためのカリキュラム。
1981年4月に入所。第11期生。同期生には大山尚雄、室井深雪(現・深雪さなえ)、千原江理子など。9期生は佐々木るん、津島瑞穂、10期生は安藤ありさ、鈴木勝美、平野義和、平松広和。富沢美智恵さんも俳協の1年先輩とのことで10期生の筈。
初めの6ヶ月が週3日の基礎科、半年後からの1年半が週5日の本科。朝がAクラス、昼がBクラス、夜がCクラスで、本多さんが通っていたのは夜学のCクラスで18時から授業開始。なお、CクラスはA,Bクラスより極端に倍率が高かったとのこと。本多さんは夜間のCクラス。サッポロライオンに就職して、昼間は銀座7丁目のビヤホールでウェイトレスとして働きながら夜は役者の勉強。どのクラスも、男女同数を合格させたいのに女子の受験が多いため女子の方が競争率高く、3倍の倍率。
養成所では卒業までの2年間に舞台公演が3回。中学生などの年齢より下の役が多かったといいます。ダークホース的存在だったが、主役を演じた卒業公演ではその演技が審査会で話題になり、1983年3月に30数名の卒業生から俳協の本所属を認められた9名のうちの1人。養成所の入学時は200人いた。
1990年代頃の本多知恵子さんは代々木アニメーション学院の声優科、井上和彦の声優教室で講師を務めて、後進の指導にも当たっていました。ただ、代々木アニメーション学院はおそらく非常勤の特別講師、井上和彦の声優教室については1996年4月のスタート時に井上和彦、谷口節、佐々木望とともに講師に名前を連ねていましたが、詳細は不明です。2000年代は『キテレツ大百科』でお世話になった杉山佳寿子さんが責任者を務めるデジタルアーツ東京という専門学校の声優科で講師を2009年までされていました。その他に2007年頃にはA-TEAM ACADEMYの声優コースの講師に名前を連ねていました。

・旧所属事務所 ……………… 東京俳優生活協同組合(通称・俳協)

1959年に外国テレビ映画の日本語版製作会社の太平洋テレビ設立。翌年、太平洋テレビの芸の産が労働問題から分裂し、タレントアンドマネージャークラブ(TMC)を四谷に設立。5月に東京俳優生活協同組合となる。さらに分裂して創立されたのが青二プロ(さらにその青二プロも分裂してぷろだくしょんバオバブが、バオバブから分離したのが81プロデュース…(以下略))。老舗のプロダクション、というか組合か。本多さんデビュー当時はナレーションを中心にしたプロダクション。アフレコにも力を入れる予定だったとか。
職員が30人、タレント約200人が1人3万円以上の出資。通常の芸能プロダクションと違い、マネージャーがおらずタレント本人が仕事を探してギャラの一部を収める形。しかし、声優部門に関してはマネージャーがいたようで、当時の俳協のマネージャーだったのは、その後、多くの俳協所属声優を引き連れてアーツビジョンを設立した松田咲実。同期の室井深雪などはアーツビジョンへ移籍したのですが、その中に本多さんは含まれていませんでした。

・デビュー作品 ……………… テレビアニメ『プラレス3四郎』

既に舞台の方の活動は行っていたかも知れませんが、1983年4月7日の『プラレス3四郎』オーディションをヒロインの今日子役で受けて「イメージが違う」ということで不合格になったものの、主人公の妹の真知子役を獲得。これが声優デビュー作になります。1983年5月17日(火)に新宿の整音スタジオで第1話を収録。放送は6月5日(日)。「まだ声優じゃない」と酷評をされるなど(スタッフ? あるいは先輩のベテラン声優に?)、評判は散々だったとか(^^;。俳協養成所時代の講師でもあった勝田久氏の当時の評価はかなり辛辣です。本多さんご本人も「問題児だった」と振り返っていますが、これには俳協付属養成所が声優を育成するためのカリキュラムでなく、アフレコについて学べなかったという理由もあったようです。
1984年7月の時点でアニメ出演は「プラレス3四郎」以来「エルガイム」までは「みゆき」のみ(マイアニメ誌1984年9月号)。
ご本人は役者志望で声優になろうという意識は希薄だったようですが、当時の俳協の担当マネージャーがアニメに強く、「オーディションを受けてみたら」というアドバイスに従ったらとんとん拍子で、気がついたら声優になっていたということです。拘りは舞台での芝居の方にあったのに両立できなかったため、泣く泣く断念されたというのが近年の説明です。初期は声優をやりたかったとか目指していたという発言もあり、ぶれがあるので正直よく分かりません。

・ユニット ………………… CHOKI!!、The Ripple

CHOKI!!(チョキ!!)は、井上和彦、小杉十郎太、荒川美奈子とのコントグループで1986年から1988年までの活動。自作自演の自主公演。グッズやカセットも販売していました。詳細は、CHOKI!!を参照。

The Ripple(ザ・リップル)は、1993年から1994年にかけて活動した松井菜桜子、川村万梨阿とのアイドル(?)グループ。キングレコードからCDをリリースし、キングレコード主催の無料コンサートも開催した他、月に1度のラジオ番組「The Rippleの幕末ナイト」も持っていました。詳細は、The Rippleを参照(只今作成中)。

OVA「レア・ガルフォース」でのレアーズ、OVA「ガルフォース地球章」シリーズのThe Gallforceというグループもありました。ガルフォースのメンバーの仲は良くて合宿や旅行をしたといいますが、CDなどの便宜上の名前のはずで、このグループ名での対外的な活動はなかったはず。
2009年のデビュー25周年ライブ「MARIA&CHIEKO ANIMATION HIT PARADE'09 <RETURNS>」では、川村万梨阿とともに万梨阿と知恵子で「マリーチェ」というユニット名を名乗っていました。15周年のときにもこの名義を使っていたかな?

VABコレクションのカセットテープの語りによれば、本多さんはパワーのある人や輝いてる人が好きでその人と一緒に輝きたいというのがあって、1人でよりもみんなとやりたいという意向があったとのことです。

その他、声優と業界関係者によるチャリティーCD「Everybody's Christmas」には、ノーギャラのフューチャーランド・スパークリング・アーティスツの一員としてレコーディングに参加。

・所属していた劇団 ………… -劇舎(SHIBAIYA)-燐

読み方は「しばいや・りん」。俳協養成所講師の演出家・手塚敏夫氏が主宰していた劇団。1980年に再発足。俳協養成所出身者が中心で、伊倉一恵、安藤ありさなども所属(伊倉一恵は1980年から1985年まで参加)。
2003年の『エルガイム大全』や2004年の『赤い光弾ジリオンDVD-BOX2』ブックレットのプロフィールでは、俳協から劇舎燐に移ったとあるが、これは誤り。劇舎燐で芝居をやっていたときも、俳協に所属していた。
ギャラも貰える声優業やアルバイトとの両立に悩み、23歳頃、つまり1986年から1987年頃の『うちゅうじん』を最後に舞台活動を諦める。『うちゅうじん』では主役のミナコ/ナミコという2役。50人くらいの小劇場で上演(劇舎燐の後身の
劇工房燐のホームページによれば、1985年3月に作・演出:中村淳之介,代々木パオでの公演だったようです(劇舎燐の活動歴)。ステップ公演というから若手中心?)。
僭越ながらご存知のない方に説明すると、小劇団の多くは、出演してもギャラが出るどころかチケットを割り当てられてノルマがあったり、稽古などで時間が拘束されてアルバイトに時間が割けなかったり、舞台の客の多くが身内だったりと、役者をしているといっても本職としてとても食べていけるものでなく、舞台活動は精神的な充足を得るためのもので金銭的見返りを求めない趣味的なものであるか、ステップアップのための手段であるか、その両方であります。
本多さんの場合も舞台公演の稽古に出ないと役をくれないという劇団の方針があったため、稽古の時間のために声の仕事にNGを出していたそうです。そのため声の仕事が来なくなり、実際、アニメに限った話ですが、1985年2月から10月までの間にレギュラーの仕事はなく、ゲストの仕事がいくつかあるくらいです。舞台に出られないときは公演のときに音響を手伝ったりして舞台との関わり合いを持とうとしたものの、自活していて経済的なゆとりもないため、両立は諦めることになります(劇舎燐の改組も転機になった原因のようです。『うちゅうじん』は本多さんの最後の舞台であるともに劇舎燐にも最後の公演にもなり、1985年12月に「劇舎(しばいや)燐を発展的に解消して―燐―を結成。30名から7名になる」(
劇工房燐のホームページより))。
声優専業でなく、女優業も目指していた頃にはテレビドラマにも出演。俳協という事務所は声優専門事務所でなく、俳協所属だった伊倉一恵さんもテレビドラマの端役に出演していました。本多さん曰く「CVといっしょに、女優業の方もやっていきたいですね。たまにチョコっとTVドラマに顔を出してるんですけど、ほとんどわかんない」。ドラマ出演について詳細は不明です。『勝手に!カミタマン』という東映の児童向け特撮ドラマには伊倉一恵とともに名前がクレジットされており、顔出しで出演しているのなら、これがドラマ出演の一部かも知れません。追記、『勝手に!カミタマン』は声の出演と顔出し出演の両方をされていました。
なお、本多さんの演技については、声優専業になって後、アニメ声優活動を通じて得たネームバリューで起用された『TOKYO CITY めるへん3 チャンプ』『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』『犬刑事』などで観ることができます。養成所時代は体が動かせないから話法の授業は苦手だったという本多さんですが、『幕末〜』出演時には役者としてカメラの前で演技することへの不慣れと勝手の違いを感じるコメントを残しています。
何かと低く見られがちなアニメの仕事ですが、形となって何十年も残り、後から調べたり鑑賞することもその気になれば可能なのに対して、舞台については、CMやナレーションの仕事などと同様にないと言ってもいいくらい資料に乏しく、上演の記録はほとんど分かりません。当時の「ぴあ」などを閲覧する手もありますので、国会図書館にぴあが所蔵されていればいずれ調査したいものです(その後、後身である
劇工房燐のホームページを発見。どの作品に出演しているかまでは不明ですが、演目などは分かりました。インタビューなどから判断すると、1984年5月の『朝きみは汽車にのる』(作:小松幹生,演出:手塚敏夫,於:代々木パオ)にも出演されているようです)。

ここここに本多千恵子という方が舞台をやっているとの情報が掲載されています。これは、パンフの誤字を元に声優の本多知恵子さんを誤って記したものではなく、本多さんとは別人の役者さんなのでしょうか。同じ「はみだし劇場」という劇団の出演者に声優の岡本麻弥さんの名前があって、本多さん本人の可能性がないとは言い切れません。この件についてご存知の方、こちらまで情報をよろしく。追記、はみだし劇場を主宰されていた外波山文明さんによると、本多千恵子さんという知恵子さんとは別人の俳優さんとのことでした。外波山さん、不躾な質問に回答をありがとうございました。


・趣味 ………………………… ドライブ/スキー/卓球/インテリア/ゲーム/読書/スウェーデン語/一人旅

免許の取得は1988年で、結構飛ばす方。卓球は親戚中でやっていたとのこと。他にスポーツは中学時代の部活で軟式テニスを。ゲームはパソコンと家庭用ゲーム機のどちらもたしなみ、RPGが好き。パソコンはMacintosh。面白いゲームソフトのプレゼントはいつでも受け付けているとのことでした。
2000年代後半になるとラジオなどで、スウェーデンや北欧文化に関心があることを明かし、スウェーデン語学の語学学校へ通ったりスウェーデンへ一人旅をされました。北欧の映画も見ていたようです。

・特技 ………………………… ものまね/振り付け/エレクトーン/ギター

物真似についてはこちらをご覧下さい。
振り付けは、自分のライブやThe Ripple、川村万梨阿とのアニソンヒットパレードはもちろんのこと、井上和彦の歌の振り付けや、本人は声優としては出演していないビデオアニメ『COMPILER Music clips in Trackdown』中の「コンパイラ音頭」の振り付けなども手がける。披露することのなかった富沢美智恵とのデュエット「優しいジェラシー」など、アイドルのビデオを参考に振り付けを考えるのが純粋に楽しいとか。
本多さんの振り付けについては、上記OVAの他、「電影帝国 5号」と「Lady's Live」で鑑賞できます。ダンスもとてもお上手です。

・ファンレターの宛先 …………… レギュラー出演の番組気付

独立して所属事務所がなく、フリーなので、現在本多さんがレギュラー出演しているテレビアニメやラジオ番組のキー局の番組気付で送ることになります。2001年7月現在でしたら、(テレビ東京ではなく)テレビ大阪の『コメットさん☆』気付で送りましょう。放送局や制作プロダクションなどの住所はインターネットで検索すれば調べられると思います。
追記。この説明はまだブログを始める前のフリー時代についてのものでした。ブログ開始後は、佐々木望公認ファンクラブNRC内のアリエス・ワンが宛先として公開されていました。青二プロダクション所属後は、アリエス・ワンと青二プロのどちらでも構わないことに。

なお、ファンレターについてはきちんと読んでいて大事に保存もし、応援していただけることをありがたく思っているけれど、自分は筆無精で返事を書けなくて申し訳なく思っているとのことでした。実際問題、人気声優でしたのでファンレターの返事を出していたらきりがなかったと思います。晩年は、ライブのお客さんやファンレターを出してくれた人にポストカードや年賀状の形で返礼されていました。


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