本多知恵子 よくある疑問と誤解

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【本多知恵子 よくある疑問と誤解】

福島での震災見舞いイベントとかに出演した声優・本多知恵子さん 49歳、多発性ガンにより死去。
本多さんが亡くなられた後、ネットで見かけるようになった書き込みです。
しかし、何月何日の何という「福島での震災見舞いイベント」に出演したのかが一切明らかにされておらず、これを裏付けるソースも見あたりません。現段階ではデマの可能性が濃厚と思います。
なお、声優の松本梨香さんが提唱した東日本大震災の復興の「まんまるプロジェクト」の賛同者に本多さんは名を連ねており、まんまるプロジェクトのチャリティーオークションにグッズを提供されましたが、何らかのイベントに出演したことは確認できません。

本多知恵子が『機動新世紀ガンダムX』の主題歌「DREAMS」をカバーしている?
これは半分間違いで、半分当たっています。本多知恵子さんは川村万梨阿さんとのデビュー15周年、デビュー25周年企画で「MARIA&CHIEKO ANIMATION HIT PARADE」を開催し、自分と関わりのあるアニメの曲を歌っていました。その中で、本多知恵子さんがエニル・エルを演じた『機動新世紀ガンダムX』の主題歌「DREAMS」も確かにプログラムにありました。しかし、あくまでこれはライブでのことであり、音源として発売されたものではありません。
よって、動画サイトなどにある本多知恵子バージョンと称した「DREAMS」なるものは、捏造であり、本多知恵子さんが歌ったものではありません。本多さんの歌声に馴染んでるファンならすぐに分かりますが、第一、声が違います。

なお、『機動戦士ガンダムΖΖ』の後期オープニングテーマ「サイレント・ヴォイス」の本多知恵子版については本物で、「とうきょうデンキKIRAKIRA合唱団 THE MIRACLE FOREVER」というCDに収録されています。

本多知恵子は、JAC(ジャパン・アクション・クラブ)出身だった?
一時、本多知恵子はJAC出身だという誤解が一部でありました。声優に詳しい方ならご存じのとおり、JAC出身の声優は本多さんの親友の富沢美智恵さんです。なぜこのような誤解が発生したかは、はっきりしています。
『ファンロード』という投稿雑誌があり、1991年5月号の「シュミの特集 機動戦士ガンダムシリーズ大事典」という企画で「本多知恵子」という項目があって、そこで以下の投稿が掲載されたのです。
メルダックのファン感謝イベントにて、JAC出身であることをバラされてしまい「1000本の腕立てに耐えた女」とか「マイクの前に出ると骨が(ボキボキ)鳴る」とかムチャクチャな事を言われていた。ちなみに司会はTARAKO。(笑)
『ファンロード』1991年5月号 39頁より
メルダックというのは、本多さんの「VOICE ARTIST BOXコレクション」「本多知恵子ミニベスト」など、当時は声優関連のソフトを出していたメーカーのこと。本多さんと富沢さんを混同したのが、司会のTARAKOさんか投稿者か、はたまた編集者のミスなのかはともかく、本多さんがJAC出身という誤解はここが発祥なのは間違いなさそうです。

本多知恵子の出身地は長野と東京のどちら?
プロフィールにあるように、出生地が東京で、一時埼玉にいたもの、小学5年生から高校卒業までは長野市に在住していました。出生地は東京都ですが、「出身地」には明確な定義がないため、どちらでも間違いではありません。
厳密に確認したわけではありませんが、デビューからはずっと長野県出身というプロフィールで、出身地を東京都としたプロフィールを見かけたのは1990年代になってからだと記憶しています。その後は長野や東京が出身のプロフィールが混在しています。青二プロダクションの公式プロフィールでは出身地は空白、マック・ミックには出身地の項目自体がありませんでした。
途中から出身地を東京都にしたのは意図があってのことと思いますが、もはやご本人に確認するすべはありません。

本多知恵子は、俳協から劇舎燐を経てフリーになった?
2003年に双葉社から出た『重戦機エルガイム大全』のプロフィール欄には、「養成所を経て俳協に所属。後に劇舎(SHIBAIYA)―燐に移り、舞台女優としても活動。そしてフリーになり現在に至る」と書かれています。
しかし実際には、本多さんの俳協在籍は1983年から1988年頃。小劇場の劇団だった劇舎燐に所属したのは1985年頃まで。つまり、燐へ移籍したのではなく同時に在籍し、むしろ燐の方を早くやめています。燐へは養成所時代から入っていた可能性もあり、俳協本部に採用される前から燐の所属だった可能性すらあります。本多さんの劇舎燐での活動については情報が不足していますが、ともかく俳協から劇舎燐へ移籍したというのは誤りです。
舞台での活動についてはギャラが発生する商業演劇でもない限り事務所は関知しないそうですし、燐が本多さんの仕事のマネジメントをするわけでもなく、そもそも燐の主宰が俳協養成所講師の手塚敏夫氏ですので、俳協に所属しつつ燐で活動することは俳優の勉強として認められていたのだと思います。

本多知恵子は、CHOKI!!(チョキ)というバンドをやっていた
CHOKI!!は、バンドではなく、コントなどをやるお笑いのグループという位置づけでした。が、メンバーが作詞作曲して歌を歌ったり、楽器演奏を披露するなど音楽も重視していたのも事実です。小杉十郎太さんはギター少年だったとか。詳しくは、CHOKI!!を参照して下さい。

これまでに演じた役で一番思い入れがあったり、印象深かったものは?
代表作というなら、世間的な知名度とかある種の客観性がありますが、思い入れとなると本多知恵子個人の主観ですからね。どれかを挙げて、他のを挙げないわけにもいかず、仕事をもらったり共にした人の手前もあるでしょうし、どの役も自分で演じて、それぞれ思い入れはいっぱいあるとのこと。よくこういう質問をされるけれど、いつも困っていたそうです。

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