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【The Ripple】

The Ripple(ザ・リップル)は、1993年にキングレコードよりデビューし、1994年6月のファイナルイベントで解散した声優ユニット。メンバーは、松井菜桜子、川村万梨阿、本多知恵子の3人。本多知恵子にとっては、CHOKI!!に続く、ユニットでの活動である。

CHOKI!!はインディーでの自主活動だったけれど、The Rippleは大手レコード会社がバックについて正式にCDをリリースし、まがりなりにもラジオ番組というメディアも持ち、コンサートも開催した。The Rippleのアイドルグループという触れ込みは、半ば本気で半分はジョークのような感じで、それには本多が29歳から31歳、松井が31歳から33歳、川村が31歳から32歳だったという年齢のこともある。ほとんどのファンにとっては、疑似恋愛の対象になる同世代のアイドルというよりはお姉さん的なポジションで、熱狂的なファンがいるアイドルとは当然違ったものであり、そこら辺は当人たちも自覚の上で、露出にあたっては、笑いを誘うかしましいトリオというキャラを心がけていた。スタッフからは「お笑いが90%」と言われていたという。

活動としては、1993年1月にデビュー曲「いつか夢のように」をリリース。2月から月に1度のラジオ番組「The Rippleの幕末ナイト」をラジオ関西で開始。そして、The Rippleの3人がメインで出演し、「いつか夢のように」がエンディングテーマの実写のオリジナルビデオ『サイレントメビウス外伝―幕末闇婦始末記』の完成記念イベントで、3月にデビューライブ。さらに春と夏には、東京・大阪・名古屋で行われる「キングレコード スターチャイルドアニメフェスティバル」に参加し、9月12日はThe Ripple単独で大阪でアルバム発売記念イベントをし、22日にアルバム「RIPPLE」を発売。1994年6月に大阪で解散コンサートをして解散、というのが大まかな流れ。

The Ripple単独でのコンサートの開催地が大阪となってるのは、ラジオ関西で番組を持っていた関係とみて間違いない。いずれのイベントやコンサートも葉書応募による無料のもの。遠隔地からでも参加したいというコアなファンには、無料開催でライトなファンでも当選しやすい地元優先はつらいものがあったかも知れない。この間にThe Rippleとしてラジオにゲスト出演したり、雑誌に登場するなどメディア展開も行っている。

The Rippleが小さく表紙を飾った朝日ソノラマの小説誌『Griffon』創刊号。


『グリフォン』1993 No.1 表紙




拡大図


■目次

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■ユニット名

The Rippleのグループ名は、『サイレントメビウス』などど知られるマンガ家の麻宮騎亜による命名である。もともとThe Ripple自体、『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』の企画に乗っかる形で当初はスタートした。
Rippleの意味は脈流であり、本多という流れと松井という流れと川村という流れがあって、それが1つになって、また後に別れていくというイメージが込められていると説明された。
『コミックコンプ』1992年11月号
「サイレントメビウスかわら版」より

ところで、The RippleもCHOKI!!のときと同じように、雑誌を使ってファンからグループ名を公募した。麻宮騎亜のマンガ『サイレントメビウス』が連載されていたマンガ誌『コミックコンプ』の1992年11月号の「サイレントメビウスかわら版」のコーナーで、オリジナルビデオ『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』のイメージソングを本多・川村・松井が歌うと告知され、3人のグループ名の公募するという形である。キングレコードの提供で商品も用意され、最優秀作にはCDラジカセを、佳作にはサイン色紙をプレゼントするというものだった。だが、『コミックコンプ』誌上ではいつまで経っても結果発表がなされなかった。同時期には版元の角川書店でお家騒動が勃発しており、『コミックコンプ』編集スタッフの角川メディアオフィス社員は独立、メディアワークスを設立して、類似誌の『電撃コミックGAO』が創刊されるという騒動があったのである。

その後、『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』とThe Rippleの情報は、分裂した『コミックコンプ』と『電撃コミック』の両方のコーナーでフォローされることになるも、グループ名公募の結果については、このお家騒動による編集スタッフ離脱などのゴタゴタが影響したかは定かではないが、結局『コミックコンプ』で発表されることはなく何のフォローもなかった。
なお、応募作は3人に届けられて目を通したようだが、松井菜桜子曰く「ロクなのがなかった」とのことで、グループ名が応募作から採用されなかった。

1992年12月の「いつか夢のように」のレコーディング時、共同取材の際にThe Rippleのグループ名が発表され、これがThe Rippleの初お披露目となった格好である。

Photoshopのメニュー


なお、The RippleのRippleとはコンパイラなどと同じくコンピュータ用語と説明されてたが、正確にはRippleというコンピュータ用語はなく、命名者が麻宮騎亜ということから、おそらくはCGをやっていた彼も使っていたであろうフォトレタッチソフトのPhotoShopにあるフィルタ「Ripple」が由来ではないかと思われる。

ただ、電気用語にもRippleがあり、この可能性も考えられなくもないが、これは直流電圧の波形は直線であるべきところが波打って脈動している割合を指すものだという。この割合が高いとノイズや誤作動の原因となるという。できるだけ除去すべきというのだから、決していい意味ではなく、ここからネーミングされたとは少々考えにくい。ここからのネーミングだとすると驚きである。

最初にThe Rippleという名前を告げられたとき、リップスと思って、LIP、口先だけの女たちってことかと思ったと言っていたけれど、声優によるユニットということも含めた語感として、リップとのダブルミーニングという感じで、ネーミングとしてはなかなか良かったのでは。

トークのときは、最初に自己紹介で、「The Rippleでーす」と言った後は、「Ripple」で通していて、一拍おく必要のある「The」をつけずに略すことがほとんどだった。


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■リリース曲

デビューシングル
『いつか夢のように』

シングルCD『いつか夢のように』
1993年1月21日リリース
キングレコード・スターチャイルド 7分27秒 800円(税込) KIDA-50

「いつか夢のように」
作詩・作曲:松浦有希 編曲:岩本正樹

「いつか夢のように」と「いつか夢のように」のカラオケバージョンの2曲を収録。
「いつか夢のように」はThe Rippleのデビュー曲であるとともに、実写時代劇のオリジナルビデオ『サイレントメビウス外伝―幕末闇婦始末記』のイメージソングかつ本編のエンディング曲

現在はほぼ絶滅した8センチCDシングルで発売された。当初は『幕末闇婦始末記』のイメージソングという扱いだったが、出来が良いということでエンディング主題歌として実際に使用されることになった、と当時の『コミックコンプ』の記事にある。確かに最初のキングレコードの広告を確認すると、イメージソングという触れ込みである。
3人が自己主張が激しくまとまりがなく、声を合わせるのに大苦労。レコーディングは夕方から12時過ぎまでかかったそうで、大月俊倫やミキサーなどキングレコードのスタッフには苦労をかけたとさすがのThe Rippleも恐縮していた。エンディングテーマだからというわけでもないが、『火曜サスペンス劇場』のエンディングテーマのようだと言われ、「あなたもそう思った?」と盛り上がっていたのが印象的。

なお、この曲は国分友里恵によるカバーバージョンがあり、『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記CDキネマ1 闇婦誕生』に収録されている。

アルバム『RIPPLE』
左から松井、川村、本多

アルバム『RIPPLE』
1993年9月22日リリース
キングレコード・スターチャイルド 49分57秒 3,000円(税込) KICS-348

「We are The Ripple」「Heartが追いつけない」「あなたのままで(ニュー・ヴァージョン)」「TOKIOはレム睡眠」「5番目のマリー」「けなげにサバイバル」「ダイヤモンドのように」「親愛なるKiss(ニュー・ヴァージョン)」「心からI love you」「いつか夢のように」「今日だけは私のそばにいて」の計11曲を収録。
作詞・作曲者については、こちらをクリック。


活動期間が1年限定のユニットとして、The Rippleの名義でリリースされたCDはこの2枚のみだが、この2枚以外にThe Rippleの曲が収録されたものとして、「Heartが追いつけない」を初収録した1993年3月5日リリースのドラマCD『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記CDキネマ1 闇婦誕生』、「心からI love you」が初収録の1993年4月3日のドラマCD『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記CDキネマ2 八五郎の恋』 。

さらに1993年5月9日リリースの『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記 総音楽集 オリジナルサウンドトラック』は「いつか夢のように」の再録と、後にThe Rippleの3人でカバーした本多知恵子のソロ曲「あなたのままで」「親愛なるKiss」が初収録されている。よって、『RIPPLE』全11曲中、純然たる新曲は6曲ということになる。


CDキネマ1

CDキネマ2

総音楽集

『いつか夢のように』と、この3枚のCDに添付された応募券の合計4枚を送ることで応募者全員にThe Rippleの生写真3枚セットがプレゼントされるという特典がついていた。

『RIPPLE』での写真は、これまでのステージ衣装と打って変わって、普段の私たち、ナチュラル、というコンセプトの普段着のおすまし顔で、ロケ地はフランスのブローニュの森……をイメージした代々木公園でロケされた。この服は本当に私物の普段着で、本多知恵子が『どうーなってるの?!』の無関係の番組企画で登場したときにこの服だったのには驚かされた。
そして、帯の「最初で最後でサイコーですっ」は、The Rippleが自分たちで考え出したキャッチコピーで、無論1年という期間限定であることから、ファーストアルバムが最後のアルバムになることを踏まえたものだ。

「いつか夢のように」から「心からI love you」」と本多知恵子のソロ曲まで、The Rippleが歌ってきた曲は、ずっと松浦有希が書いたアイドル系の路線で可愛い感じだった。『RIPPLE』では松浦有希の作った本多知恵子のソロ曲をThe Rippleでカバーし、それに加えて、ダンサブルな曲や松井菜桜子の希望でコミックソング的なものということになり、当時アニメでは『NG戦士ラムネ&40』の曲を作っていて世話になっていた長岡成貢が参加。またThe Ripleのメンバーで作詞作曲したものが入るなど、バラエティに富んだものになった。

「けなげにサバイバル」は、観客からの相の手が入り、3人がステージをかけずり回るという賑やかなイベント向けの曲だが、これを歌うとバテたそうだ。ムード歌謡っぽい「5番目のマリー」は、声優の仕事を歌ってるようで面白く松井菜桜子のお気に入りの曲。その松井が作詞した「ダイヤモンドのように」は、「あなたそれがどうだっていうの」という出だしの強烈な詞で、夜中にFAXで送られてきたときは、松井菜桜子が怒りのFAXが送られたと勘違いしたり、トラックダウンのときにスタジオにいた声優の玉川紗己子が吹き出したという笑い話がある。
川村万梨阿のが作詞した曲は英語が多く、「We are The Riplle」は難しかったというが、当時の『CDジャーナル』誌の試聴した寸評で、「We are The Riplle」は「すごくカッコいい」と好評だった。このときのレビューはCDジャーナル公式サイトにも掲載されている(こちら)。川村万梨阿がデビュー25周年コンサートで、「あんまりいいようには書かれてなかったのを見た」と言っていたのはおそくらこのレビューか。

メンバーの中で唯一作曲の挑戦したのが本多知恵子で、本多が作った曲に3人でThe Rippleとして詞をつけたのが「今日だけは私のそばにいて」。求めた曲と出来上がりのギャップに苦しみ、自分が作った単純な曲をアレンジャーがダンサブルな感じに編曲してかっこよくしてくれたと謙遜する本多に、彼女は作曲の道で生きた方がいいかもと松井が褒めるというコンビネーションを見せていた。

アルバムの後には、沖縄でイメージビデオも出したいとその話で盛り上がっていたが、CDの5万枚以上のセールスが必要という商業上の理由で希望は叶わなかった。

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■幕末闇婦始末記

麻宮騎亜のマンガ『サイレントメビウス』の時代劇版。幕末の日本をを舞台に『サイレントメビウス』で『必殺仕事人』『大江戸捜査網』をやろうというノリの作品である。この作品のメディアミックスと連動する形で、当初のThe Rippleの活動はスタートした。

オリジナルビデオ『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』にThe Rippleの松井菜桜子が主演し、本多と川村も出演。川村は『サイレントメビウス』のオリジナルキャストではなく、鶴ひろみが演じてきたキディ・フェニルに相当する芸者の姫竜役を担当した。
デビュー曲「いつか夢のように」は『幕末闇婦始末記』のテーマソング、その他のThe Rippleの曲もドラマCDやサントラの形で発表された。発売はもちろんキングレコード。

企画当時は『サイレントメビウス』が2年連続で劇場アニメ化されており、作品として勢いがあったため、このようなお遊び企画も成立したのだろう。『幕末闇婦始末記』は、原作者である麻宮騎亜のスタジオトロンと『サイレントメビウス』を連載していた角川書店、バンダイビジュアル、キングレコードの共同製作で、バンダイビジュアルが本編の映像ソフト、角川書店がノベライズ、キングレコードが関連CDという形でメディアミックス展開していた。The Rippleの初ステージとなった試写イベントは、キングレコードでなくバンダイビジュアルが主催した。角川文庫から出たノベライズの巻末には、The Rippleの3人が撮影の裏話と苦労を笑いを交えて話した座談会が掲載されていて、ファンなら必読ものである。

時代劇版の『サイレントメビウス』といえば、「大江戸闇婦始末記」というオーディオドラマが『幕末闇婦始末記』に先だって発表されていて、こちらの方は『大江戸捜査網』のパロディ色が色濃く出ている。1991年にキティレコードより発売されたドラマCD『サイレントメビウス WARNING』に収録。

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■結成までのいきさつ

The Rippleの3人のメンバー、川村、松井、本多の所属事務所は、それぞれアーツビジョン、ぷろだくしょんバオバブ、フリー(いずれも当時)と分かれており、当然のことながらThe Rippleは事務所が主導した企画ではない。結成自体はレコード会社やビデオ会社が主導したわけでもなく、日頃親交を温めていた3人の発意により結成されたグループである

活動当初は確かに『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』と連動はしていたが、まず3人で何かやりたいというのがあって、それに原作者の麻宮騎亜が協力して活動のきっかけを作ったという後押ししてもらったという形である。

The Rippleのメンバーは、本多が1963年生まれで他の2人は1961年生まれだが、実際には本多は早生まれで学年でいうと1年違い。さらに3人とも声優としてのデビューは1983年で、声優としては同期生となる。『重戦機エルガイム』と『アタッカーYOU!』の1984年のとき、録音スタジオが隣で顔を合わせていたがそのときは声を交わすことはなく、1987年のOVA『ガルフォース2 DESTRUCTION』で3人が初めて揃って仕事をし、この頃から本格的に仲良く付き合うようになったという。

The Rippleは1993年1月デビューだが、その1年半くらい前の1991年頃より、普段から仲の良い3人で何かやりたいと気運が盛り上がっていたようだ。1991年5月リリースの『VOICE ARTIST BOX コレクション 本多知恵子』のカセットのフリートークでは、次のようなことを語っている。特に企画があるわけでなく3人で話しているだけとしながら、3人でいると大笑いするくらい面白く、こんな面白いことを3人だけでとどめておくのはもったいないのでファンに見せられたらなと思っている、びっくりするようなことを3人でやっていきたい、と。

『OUT』1991年6月号 44頁より
「なかよし三人娘のオトメチック座談会」
左から、本多、松井、川村

『VOICE ARTIST BOX コレクション 本多知恵子』とほぼ同時期発売のアニメ誌『OUT』1991年6月号 には「なかよし三人娘のオトメチック座談会」と題して3人の座談会が掲載されており、そこで川村万梨阿が「三人でこうやってしゃべってると受けちゃうから、それを見せちゃおうかって」「仕事のための仕事じゃなくて、半分遊び感覚で、自分たちも楽しめて、他の方も楽しんでいただけるような仕事ができたらいいなって」と本多と同様のことを語る。さらに3ヶ月ほどすると、衛星ラジオのPCMジパングで放送の「ウルトラ・マニア・バンザイ 菊池通隆のサイレント・ヴォイス』に本多がゲスト出演し、『サイレントメビウス』実写版の企画とともに、3人でライブをやる企画が持ち上がっていると話して、菊池通隆(麻宮騎亜)に協力をお願いしており、The Rippleとして結実したと思われる。


本人たちが語ったところによれば、3人でご飯を食べているとき、キングレコードの大月俊倫がいて「なんかやりた〜い」「なんかやりたい」と、ねだって、 「うん、いいよ」というノリだったそうである。終わった後に3人で仲良く夕ご飯が食べられるような仕事をしたいという軽い気持ちで、事務所が介在して契約がどうというのではなく、かなりゆるゆるだったという。
その大月俊倫は1961年生まれで、The Rippleの3人とは同年代。仕事についても『赤い光弾ジリオン』『ドリームハンター麗夢』の頃からともにしていた。3人が歌った曲が収録されたオムニバス盤の『プリンセス プリンセス プリンセス』は1990年のキングレコード社内のヒット賞を受賞。その際、キングレコードの社長から「大月くん、この子たちの将来はちゃんと考えてるんだろうね」と念を押されたという逸話もある。こうした関係のあった大月俊倫のいたキングレコードでなければ、The Rippleのような形の活動は難しかったかも知れない。

そして、前述の『サイレントメビウス』でかねてから、世話になっていた麻宮騎亜が一肌脱いで、『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』をプロデュースし、その派生としてドラマCDドラマを産みだしたことが大きな後ろ盾になったのも間違いないだろう。

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■ステージ衣装

The Rippleステージ衣装
デビューシングル
『いつか夢のように』
左より、川村、本多、松井

The Rippleのコスチュームは、基本的なデザインを松井菜桜子が考えて、それにメンバーのみんなで話し合い、衣装さんとこんな感じがいいねというようにデザインされた。

コスチュームがそれぞれ少し異なるのは3人の体型を考慮し、さらにイメージとして、本多知恵子は小泉今日子などアイドル系でフレアスカート、松井菜桜子はCCガールズ系でボディコン風のタイトミニ、で、残った川村万梨阿はどうしようかと困ってボンテージ系でショートパンツに。共通のカラーは黒で統一して、それと各自のカラーを組み合わせ、本多は黄色、川村が赤(ピンク)、松井がオレンジ色になった。

このコスチュームでイベントに登場。アルバム『RIPPLE』では私服姿の3人の写真が使われるようになったが、デビューシングル『いつか夢のように』からドラマCD『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記 CDキネマ1』『同2』までこの衣装のThe Rippleがキングレコードの広告ページに登場し、アニメ誌を飾った。

松井菜桜子の衣装はスカートが短くしすぎたの欠陥があり、踊るときにパンツが見えそうだというので、見えてもいいように同じ色と素材でオレンジ色のブルマを着用している。他にこの衣装を見た友人で声優の富沢美智恵から、「うわあガッチャマンのベルクカッツェみたい」と言われたり、みんなはブーツが膝上までなのに、小柄な本多知恵子だと、ブーツを履くとスカートと繋がったというのを笑い話にして盛り上げていた。

セクシーを狙ったという衣装だったが、ラジオではジャケットやポスターを「魔除けに使って下さい」「押し売りが来なくなる」と笑わせて、自分たちで率先して色物扱いするのがThe Rippleの3人のキャラクターでもあった。アニメ誌『ニュータイプ』の読者投稿欄のお題で、「ギラギラするもの」に「The Ripple」という投稿が掲載されたことも。

1994年6月の解散コンサートでは、新たに白のコスチュームを新調。本多は、タイトミニもしくはパンツで、川村は薄めのパンタロン風、松井はスリットの入ったロングスカート。ライティングによって衣装の色が変化する演出が施された。

前半は、この新コスチュームで歌い、トークコーナーの最中に1人ずつ抜けて、最初のコスチュームに着替え、コンサート後半は従来の衣装で最後を締めくくった。

画像は、広報紙「スターチャイルドでございますぅ」1994 Vol6より
解散コンサートのステージ写真。左から、松井、本多、川村。

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■役割分担

The Rippleにリーダーはおらず、強いて言えばキングレコードの大月俊倫がそのポジション。3人の中では、一番真面目でしっかり者で常識人だと自認している本多が面倒な雑務を引き受け、「今年はThe Rippleにかける」と張り切った。「The Rippleの幕末ナイト」のメインパーソナリティーとして唯一全回出演。CHOKI!!に引き続き、振り付けも担当するばかりか、ライティングなどステージの演出も考えていたという。小柄なこともあってポジションはセンターが定位置だった。

松井菜桜子はマスコミ部門というか広報部門とし、川村万梨阿はスケジュールの折衝とかマネジメント、揉めたときに川村万梨阿に外に出てってもらうと説明されていたが、実際どうだったかはよく分からない。3人はデビューが同年で、デビュー15周年と25周年は、本多と川村の2人でライブを行い、松井はそれにゲストとしてコーナーに参加する形だったが、その理由は歌や踊りを覚えるのが面倒ということだった。それを考えると、振り付けなどといった面については積極的な本多が引っ張った格好と思われる。


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■活動期間

The Rippleは、最初から1年間の限定活動と謳われていた。理由は、長くやると飽きてしまうからというのと、漫才コンビに見られるように仕事でずっと一緒にいると口もきかなくなるほど仲が悪くなるケースがあるから。たまに、松井菜桜子がやりたくないからと1年間になったとも本多が説明し、松井がこの2人の根気がそこまで続かないやっぱ1年がせいぜいだからよ、とやり返す一幕もあった。

実際には1993年1月にCDデビューし、1994年6月に解散なので1年半になった。

1月のCDデビューからThe Rippleとして観客に初お目見えの3月までが2ヶ月、4月にもイベントがあり夏のスターチャイルドアニメフェスティバルが8月で4ヶ月の感覚、アルバム発売記念イベントが9月だったので、CDデビューの1月に解散コンサートなら4ヶ月後ならば、きれいなペースでフィナーレを迎えられたはずだった。
しかし、実際にはファイナルイベントは1994年6月にずれ込み、9ヶ月の間隔が空いた。その間、The Rippleの活動といえるのは、実質的に月に1度のペースのラジオ「The Rippleの幕末ナイト」が4月まで続いたのみである。

The Rippleとして皆さんの前に姿を現したのが3月だったので、1年限定活動として解散もその頃を考えたけどいろいろあったという。3月は受験シーズンと重なるというのも理由として挙げられていたが、アルバムが出たのが半年前のグループに無料でコンサートを開くというのはキングレコードとしても迷うことがあったろうとは思う。会場になった御堂会館の使用料は30万円だそうだが、The Rippleにギャラが出るかどうかはともかくイベントスタッフなど諸経費がかかるはずで、物販があるといっても関連商品といえばCDくらい。キャパ900人でペイできるものでなく、主催したキングレコードにとっては持ち出しのファンサービスだったのは間違いなく、開催してくれたキングレコードには感謝の次第である。

それはともかく、解散イベントが決まらずに、ズルズルとまっいっかっていう声もあったんですけどと松井菜桜子は言っていて、ファンからももうちょっとやってほしいという声もあったそうである。ラジオ「The Rippleの幕末ナイト」を楽しんでいた1人としてはなし崩しに続いてくれても構わなかったのも事実だが、結局、1年と言ったから以上2年続けるのはどうかということで、4月にラジオ終了、6月に解散の運びとなった。

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■コンサート/イベント

サイレントメビウス外伝―幕末闇婦始末記』完成記念イベント
1993年
3月20日(土)
東京・護国寺 天風会館
The Rippleデビューコンサート
オリジナルビデオ『サイレントメビウス外伝 幕末闇婦始末記』試写会、菊池通隆と河崎実監督のトーク
1993年4月5日(月)の名古屋・松坂屋ホール(13:30分開演,14:00会場)には参加しなかったが(ゲストは山口勝平、岡本麻弥、菊池通隆、河崎実監督、大沼弘幸)、The Rippleのトークが会場で放送された。

キングレコード スターチャイルドアニメフェスティバル'93春 大阪
1993年
3月21日(日)
大阪・御堂会館
ゲスト:The Ripple、林原めぐみ、水谷優子、玉川沙己子、森川智之ほか
The Rippleステージでトークとライブ
『ミンキーモモ』『コンパイラ』『ガクセイバー』などのOVAのダイジェスト上映、 テレビ『テッカマンブレード』最終話上映、玉川紗己子と松井菜桜子によるザ・バターピーナッツの歌、水谷優子と林原めぐみのDrinkの歌

キングレコード スターチャイルドアニメフェスティバル'93春 東京
1993年
3月24日(水)、3月25日(木)
東京・豊島公会堂
ゲスト:The Ripple、林原めぐみ、水谷優子、玉川沙己子、森川智之ほか
The Rippleステージでトークとライブ
『ミンキーモモ』『コンパイラ』『ガクセイバー』などのOVAのダイジェスト上映、 テレビ『テッカマンブレード』最終話上映、玉川紗己子と松井菜桜子によるザ・バターピーナッツの歌、水谷優子と林原めぐみのDrinkの歌

キングレコード スターチャイルドアニメフェスティバル'93春 名古屋
1993年
4月4日(日)
名古屋・港湾会館
ゲスト:The Ripple、林原めぐみ、水谷優子、玉川沙己子、森川智之ほか
The Rippleステージでトークとライブ
『ミンキーモモ』『コンパイラ』『ガクセイバー』などのOVAのダイジェスト上映、 テレビ『テッカマンブレード』最終話上映、玉川紗己子と松井菜桜子によるザ・バターピーナッツの歌、水谷優子と林原めぐみのDrinkの歌

Something Dreams
1993年
4月25日(日)
埼玉県・大宮ソニックシティー大ホール
ゲスト:The Ripple、横山智佐、金丸淳一、山口勝平、日高のり子、ハミングバード、坂本千夏
1人2曲でグループ5曲ずつ、トーク、全員参加の寸劇、問い合わせはキョードーロッケン、『アニメV』1993年5月号でイベント欄で告知が掲載されるが中止?

キングレコード スターチャイルドアニメフェスティバル'93夏 東京
1993年
8月11日(水)
東京・豊島公会堂
ゲスト:The Ripple、林原めぐみ、玉川紗己子、永野あかね
The Rippleステージでトークとライブ
スターチャイルドオープニングエンディングアニメ、玉川紗己子の歌、OVA『ゴウザウラー』『ふぁんたじあ』上映、林原めぐみのステージ、抽選会

キングレコード スターチャイルドアニメフェスティバル'93夏 名古屋
1993年
8月17日(火)
名古屋・港湾会館
ゲスト:The Ripple、林原めぐみ、玉川紗己子、永野あかね
The Rippleステージでトークとライブ
スターチャイルドオープニングエンディングアニメ、玉川紗己子の歌、OVA『ゴウザウラー』『ふぁんたじあ』上映、林原めぐみのステージ、抽選会

The Rippleアルバム発売記念イベント
1993年
9月12日(日)
大阪・尼崎つかしん内つかしんホール
The Rippleミニコンサートとトーク、握手会
アルバム「The RIPPLE」会場予約特典は3人の直筆サイン入り下敷とポスターと直筆サイン色紙の3点セット

The Ripple Final Event
1994年
6月11日(土)
大阪・御堂会館
15時開場 16時開演
The Rippleコンサートとトーク、公開「幕末ナイト」、16曲を歌う
キングレコード主催、会場でアルバム「RIPPLE」購入者には先着300名にアルバム「RIPPLE」の表紙ジャケットと同一のカラー写真の色紙にThe Rippleの直筆サイン色紙をプレゼント
6月25日(土)のラジオ関西『林原めぐみのハートフルステーション』でコンサートの模様の一部を放送


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■熱血電波倶楽部「The Rippleの幕末ナイト」

The Rippleの活動の拠点で、求心力の源泉となったラジオ番組。1993年2月7日から1994年4月3日まで、月に1度のペースで、日曜日の22時30分から22時45分までの15分間、全15回を放送した。スポンサーは、キングレコードとアニメイト。

番組名は連動していたオリジナルビデオ『幕末闇婦始末記』から採られたものだが、番組内では『幕末闇婦始末記』のことは全くと言っていいほど話題にされなかったし、確か番組名の説明もなかったと記憶している。ラジオだけを聞いている聴取者の中には「爆発ナイト」と勘違いする人もいたというが、さもありなん。

放送局はラジオ関西で、アルバム発売記念イベントや解散コンサートが大阪開催になったのも、この番組が関西の番組だったためと思われる。実際は、ラジオ関西は夜間ならば、東海地方や関東地方でもわりと受信しやすい局ではある。純粋にThe Rippleのラジオ番組になっていた。スターチャイルドのイベントを8月に終えてからは、The Rippleの活動実態はこの番組だけである。現在であれば公式サイトやブログが活用できるけれど、当時はネットとといえば、パソコン通信はあって普及はマニア層中心で一般に普及したとは言い難く、インターネットも存在していたけれど学術研究関係中心。中高生や大学生へ向けて、情報発信するにはラジオが一番手軽で最適なメディアだった。月に1度とはいえ、情報発信の手段がファンクラブ会報やアニメ誌のイベント告知だけだったCHOKI!!に比べれば、はるかに恵まれていたと言えよう。レコード会社がついていた強みである。

「The Rippleの〜」と銘打ちながら、全15回中、全回に出演したのはメインパーソナリティの肩書きの本多知恵子のみで、川村万梨阿は3回欠席、松井菜桜子は第1回は録音出演で第8回から出演と、The Rippleの3人が揃ったのは第8回からの後半部分のみ。松井菜桜子は不在の間にすっかりオチのキャラにされてしまった。3人揃わないことがネタにされたり、松井菜桜子の欠席がイジられたが、実際は松井は他の番組のレギュラーの仕事が入っていて、外画の主役をやっていたというから、半分は趣味でしかもギャラも安いであろうラジオの仕事が後回しになるのは事務所的にも仕方なかったのかも。川村万梨阿の場合は4月はレコーディングの仕事が入っていた。

番組のメインのコーナーとなったのが、第4回から第8回からの「The Rippleのここが嫌いだコーナー」。リスナーからThe Rippleの悪口を募集して、それにThe Rippleは態度を改めなくて怒るという企画で、「私たちをネタに笑ってほしいのよ」というものだった。12回から15回が「The Rippleにお願い」コーナー。普通のハガキやトークコーナーも3人でけなしあってギャグやジョークを交えながら進行した。

同時期の「無責任艦長タイラー8585ダイヤル」というテレホンサービスのパーソナリティーだった本多がそこでは「ウン歳」と年齢を隠していたのが、「あたしも30だもーん」とこの番組では年齢を明かしたり、誕生日を祝ってもらった川村が32歳と自分から明かして「問題ないね」と言うなど、親友同士でやってる番組だからか、開放的でのびのびした雰囲気のお笑いが基本の番組だった。本多の身長や川村の目の隈は定番のネタになり、松井はいつもオチにされていた。オープニングで「やあみなさん一月ぶりぶり」とはしゃいでいた川村が実に印象的だった。

この『熱血電波倶楽部』は、『NG騎士ラムネ&40』シリーズや『流星機ガクセイバー』などキングレコードのメディアミックスの一環でラジオドラマを放送する枠で1991年11月からラジオ関西で放送が始まった。当初はラジオドラマ専門番組だったが、第19回の1992年3月22日に水谷優子と林原めぐみの「優子とめぐみの超音波倶楽部」というトークスペシャルを交えるようになり、他にも林原めぐみの「万能文化猫娘DJスペシャル」 「ミンキーモモDJスペシャル」など、月に1度か2度あるかないかのペースでトークスペシャルが挟まれるようになった。「The Rippleの幕末ナイト」は、『熱血電波倶楽部』としては第65回からの放送で始まったものである。

ファンの心情としては、週に1度のThe Rippleの独立した番組があればよかったのだが、当時のキングレコードの提供ラジオ番組は既に『熱血電波倶楽部』以外に、『林原めぐみのハートフルステーション』『林原めぐみの東京ブギーナイト』『ノンコとのび太のアニメスクランブル』『mamiのRADIかるコミュニケーション』『本間かおりのHello!アニポッポ』『青春ラジメニア』と6つあって、これから長期的に売り出そうとするならともかく、1年限定のThe Rippleに新規の番組枠は難しく、トークスペシャルが挟める枠だった『熱血電波倶楽部』の存在はうってつけだったのだろう。北海道(松井)、東京(川村)、長野(本多)と関西に地縁がないThe Rippleが関西中心の活動になったのは、ラジオ関西のこの番組あってのもので、キングレコードの都合が大きい。

なお、『熱血電波倶楽部』放送のラジオドラマは、後からTBSと東海ラジオで始まった30分番組の『林原めぐみの東京ブギーナイト』の後半15分で放送され、『幕末ナイト』がある週は30分DJスペシャルとなっていた。ラジオ関西では『林原めぐみの東京ブギーナイト』が放送されず、1時間番組の『林原めぐみのハートフルステーション』が放送されていて、『ハートフル』と『ブギーナイト』はゲストが共通するなど、3番組はそれぞれ連動する形で制作が行われていた。『熱血電波倶楽部』は1995年3月26日放送分をもって放送を終了。

エンディング曲は第1回から第8回が『NG騎士ラムネ&40』のキャラクターソングで本多知恵子のソロ「乙女心はウフフ」、第9回から14回はThe Ripple「親愛なるKISS」、最終回が「心からI Love you」。毎回最後の挨拶は「お達者で〜」で締めていた。


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■ラジオゲスト


『水谷優子のアニメ探偵団2』 1993年年2月24日
声優の水谷優子がパーソナリティーの番組で、三大都市圏で放送されておらず、複数の地方局のみで放送されていた。1993年2月は、The Ripple月間ということで、3人がそれぞれ1人ずつゲスト出演し、最後の4週目にThe Rippleとして3人揃って出演した。

内容は、番組コーナーの「今週の気持ちいい」をThe Rippleの3人が挑戦、オリジナルビデオ『幕末闇婦始末記』出演の裏話。1人ずつゲスト出演したときの3人の中で「誰が一番○○か」という「目指せ一番クイズ」の回答の集計、3人の遅刻のことやカラオケの話。「いつか夢のように」の放送。今後の活動予定など。イメージビデオを出したいとか、冗談半分でレコード大賞にも挑戦すると意気軒昂だった。

『ウルトラ・マニア・バンザイ/菊池通隆のサイレント・ヴォイス』 1993年年3月19日
PCMジパングという角川書店やTBSなどが出資した衛星ラジオ放送で放送していた『サイレントメビウス』原作者がパーソナリティーのトーク番組。圧縮していない高音質のPCM音声がウリで、他にもミュージックバードやサテライトミュージックなど6社がプラットフォームに参加していた。マニア層を対象にしていたが、いくらクリアな音声と言ってもラジオに専用のパラボラアンテナとチューナーで合計20万円近い導入費用で、なおかつ有料の月額費用がかかるのでは契約が集まらず、確か1年か2年で終わった。

この番組は、角川書店と原作者の強みを活かして、過去にも松井菜桜子や本多知恵子、岡本麻弥など『サイレントメビウス』のメンバーがゲストに呼ばれており、The Rippleとして改めて2週にわたってゲスト出演。3月のデビューコンサートを控えた時期だった。前述の事情からこの番組のリスナーはほとんどいなかったと思われるが、麻宮騎亜・菊池通隆ファンクラブ会報の『Sandwich』のVol.5にトーク内容を採録し、収録中の写真まで掲載されている。

1週目は、3人の出会いとそれぞれの初対面の印象、ガルフォースの思い出、The Rippleの結成のいきさつと限定活動の理由、役割分担や衣装などについてが語られた。

『ウルトラ・マニア・バンザイ/菊池通隆のサイレント・ヴォイス』 1993年年3月26日

The Rippleがゲストの2週目。最初は好きなもの嫌いなものという話題。「痰を吐く人」」という本多知恵子に「誰だって嫌いだよ」と突っ込みが入って笑いになる。「ハートが追いつけない」を放送。沖縄でイベントしてビデオ撮影して発売しようという構想が語られる。川村と本多が水着姿で、松井は1kmくらい先のヌードになるかもと。そしてアルバムを出すなら発売イベントとライブをやって最後にはファイナルコンサートをやりたいとも言っていて、これは実際に開催された。

他にも、歌は1曲だけでかしまし娘みたいな漫才をやりたい、セーラー服姿の女子高生に扮してドラマ『高校教師』のパロディっぽいギャグビデオをやりたい、16歳くらいに偽ってきれいにミュージックビデオを取ってもらい「歌う天気予報」でかけるなど、半ば妄想まじりの抱負が語られ、「くだらないこと考えさせたら日本一なんですよ」と落とした。たぶんこれが普段の3人の会話のトーンなんだろうと思う。

『菊池通隆のサイレント・ヴォイス』は、スタート時は角川書店のお家騒動前で、『コミックコンプ』と連携して、誌面でトーク内容が紹介されていた。だが、お家騒動後『コミックコンプ』は外部の編集プロダクションの編集となり、The Rippleがゲストの回は前述のように麻宮騎亜ファンクラブ会報という限られたファンが目にする媒体にしか掲載されていない。PCM衛星ラジオ出演は、The Rippleにとって、どれだけのパブリシティ効果があったのだろうか。

『ノンコとのび太のアニメスクランブル』 1993年年9月26日
声優の日高のり子と文化放送の長谷川アナウンサーによるアニメ関連番組。スポンサーの1社がキングレコードで、アルバム『RIPPLE』発売てプロモーションのためゲスト出演。アルバムの中からは「We are The Riplle」がかかった。

トーク内容は、リーダーや3人の担当について、結成までのいきさつ、アルバム『RIPPLE』の内容の解説、ブックレットの写真、3人それぞれの今後の活動予定など。

『林原めぐみのハートフルステーション』 1994年年4月2日
キングレコード提供のラジオ番組で、『幕末ナイト』と同じくラジオ関西の放送。The Rippleは、ファイナルイベントの宣伝のための出演。ファイナルイベントは大阪での開催ということで、当然のことながら東京と名古屋で放送の『林原めぐみの東京ブギーナイト』で告知しても無意味ということなのか、出演しなかった。

1年限定の活動だったのになぜ1年半になったのかの説明や遅刻の話など。曲は「けなげにサバイバル」を流す。ステージ衣装の話と現在凝っているものの話。最後はファイナルイベントのステージの構想を話して終わり。

『ラジオアニメイト』 1993年年3月?4月?
ラジオ番組ではなく、アニメショップのアニメイト店内で放送されていた店内放送の番組。松本保典と水谷優子がパーソナリティを務めていた。有線放送ではなく、テープに録音されていたものを繰り返し流したものと思われるが、詳細は不明。内容も未確認。


スタジオにゲストとして出演したもの以外に、録音したThe Rippleのトークが番組で流れたものとして以下のものがある。


  • 『アニメキングダム』 1993年3月17日
    角川書店がスポンサーの番組。パーソナリティーは、山口勝平と岡本麻弥、大沼弘幸。山口と岡本は、劇場版『サイレントメビウス』と『アルスラーン戦記』のキャストで、もともとは角川アニメ2本立て興行「六次元英雄伝説」の宣伝番組だった。
    「いつか夢のように」を収録中のThe Rippleのレコーディングスタジオでの約4分間のトークを放送。
  • 『林原めぐみのハートフルステーション』 1993年8月7日
    9月12日(日)に開催されるThe Rippleのアルバム発売記念イベントを告知する本多知恵子のナレーションが1分15秒ほど流れる、8月14日と8月21日放送分にも流れた。
  • 『アニメキングダム』 1994年3月2日
    100回記念放送で、矢尾一樹、林原めぐみなどとThe Rippleとしてテープの祝辞メッセージ。「『幕末ナイト』は終わったのに」や近々乱入したいなどといった内容。
  • 『林原めぐみのハートフルステーション』 1994年5月6日
    6月11日(土)に開催されるThe Rippleの解散イベントの告知をThe Rippleの3人のトークで1分48秒放送。1週間を置いて5月20日(土)にも同一内容の短縮版で1分35秒。
  • 『RADIOパラゴン』 1994年5月11日
    俳優の井上和彦と女優の越智静香がパーソナリティー。電話メッセージのコーナーで6月11日(土)に開催されるファイナルイベントの告知をThe Rippleの3人のトークで1分20秒ほど流れる。
  • 『林原めぐみのハートフルステーション』 1994年6月25日
    6月11日(土)に開催されたThe Rippleのファイナルイベントの録音を1分ほど放送、ゲストは佐々木望。


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    ■解散後

    1994年6月にThe Rippleは解散したが、3人で何かやりたい、アルバム発売記念イベントをやりたい、解散コンサートという希望を実現できた一方で、夏に沖縄にファンを集めてイベントを開催してのイメージビデオ撮影やライブでの黒人のバックダンサーという話は話だけで終わった。結構売れたらありうるかも知れない、考えているという話だった「帰ってきたThe Ripple」もその1つである。

    だが、解散から2年後、ラジオにゲスト出演した本多知恵子はThe Rippleの話が出ると「懐かしいね、Ripple」とサバサバしたものだった。アニメスタッフがThe RippleのCDを持っていると言ったら、大笑いされたともいう。川村万梨阿もラジオでThe Rippleの頃を「走馬燈のように思い出すとんでもない間抜けな日々だったんですけど」とかつての自分を突き放して笑い飛ばしてみせた。

    1983年にデビューしたThe Rippleの3人は、1998年でデビュー15周年を迎えた。本多知恵子と川村万梨阿の2人は、前倒しで15周年の1年前の1997年11月にそれを記念したライブ「MARIA & CHIEKO ANIMATION HIT PARADE」を開く。翌1998年6月には大阪でも開催された。このライブに松井菜桜子がゲストという形で参加し、大阪ライブのレポートによれば、3人でThe Rippleのステージ衣装に着がえて、「けなげにサバイバル」が披露したそうである。

    さらにデビュー25周年となる2009年にも「MARIA&CHIEKO ANIMATION HIT PARADE '09」が開かれ、The Rippleの衣装かは定かではないが、ここでも3人でThe Rippleの持ち歌である「いつか夢のように」を歌ったという。

    The Rippleが復活しての3人のライブでなく、川村と本多の2人のライブという形に松井菜桜子だけがゲスト参加になったかといえば、前述のように歌や振り付けを覚えるのを松井が嫌がったという説明があったが、これは3人のことだからどこまで本当でどこまでジョークかは分からない。ただ、コンサート開催前のラジオで歌と振り付けで困憊した本多が弱音を吐いていて、大変なのは事実だったのだろう。

    2013年、The Rippleがデビューして20年になる年の2月18日、本多知恵子がガンにより逝去。


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